溝口の郷 散策コース
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【画像最終更新日:2011.09.16 22:00】
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溝口のみどころ紹介 このページの先頭へ
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熱田神社 このページの先頭へ
1993年(平成5年)に国の重要文化財に指定され、特殊な建築技法と彫刻技術は見事で、「伊那日光」ともいわれています。また、境内(本殿西南側)にある「舞宮」は踊りや芝居などの芸能を神に奉納するための舞台として使われたものです。
創建は明らかではありませんが、日本武尊が東征の帰途この地に立ち寄った折、村人を悩ませていた大蛇を退治して桑の木の下に行宮を建て、その傍らに大蛇の首を埋めたという伝説を信仰した村人たちが、尾張国の熱田神社の形影(三方三ツ辻)を迎えて産土神(うぶすながみ)として祀ったのが始まりとされています。
現在の本殿は、宝暦13年(1763年、江戸中期)に再建されたもので、建築は溝口村の高見善八、彫刻は東上州の関口文次郎の手により、名匠二人が建築と彫刻を見事に調和させています。
分杭峠でおなじみの「気」を感じる場所がこの境内にもあるといわれています。
【現地 熱田神社解説碑/舞宮解説板の内容】
創建は明らかではありませんが、日本武尊が東征の帰途この地に立ち寄った折、村人を悩ませていた大蛇を退治して桑の木の下に行宮を建て、その傍らに大蛇の首を埋めたという伝説を信仰した村人たちが、尾張国の熱田神社の形影(三方三ツ辻)を迎えて産土神(うぶすながみ)として祀ったのが始まりとされています。
現在の本殿は、宝暦13年(1763年、江戸中期)に再建されたもので、建築は溝口村の高見善八、彫刻は東上州の関口文次郎の手により、名匠二人が建築と彫刻を見事に調和させています。
分杭峠でおなじみの「気」を感じる場所がこの境内にもあるといわれています。
【現地 熱田神社解説碑/舞宮解説板の内容】
熱田神社(重要文化財) 信濃なる伊那てう里の片辺にも めぐみ熱田の神の御柱 遠い昔の先祖たちが、日本武尊を信仰し、尾 張の国、熱田神社の形影(三方三ッ辻)をお迎 えし産土神として祀ったのが当社のはじまりで ある。 現在の本殿は宝暦12年(1762)溝口村 百数十戸の氏子が300両という大金を出しあ って建築したものである。 この建築には宮大工であった当溝口村高見善 八は棟梁となり、多くの職人とともに精魂こめ て仕上げたもので、規模といい、造作といい、 近隣に比類ない豪華なものである。 特に彫刻部は上州(現群馬県)勢多郡の関口 文治郎、彩色は、武州(現埼玉県)熊谷在の森 田清吉である。竜、像、唐獅子、花鳥などの彫 刻は実に巧妙華麗で見あきることがない。それ で名声が響きわたり「伊那日光」と呼ばれるよ うになった。 またこの本殿を風雨から防ぐため、明治21 年(1888) 天覆(かやぶき屋根)を再建 し、以降幾たびかの屋根替えが行われ現在に至 っている。 文化財指定の経緯 昭和47年8月25日 長谷村文化財指定 平成元年8月14日 長野県宝指定 平成5年12月9日 重要文化財指定 長谷村教育委員会
熱田神社の舞宮 指定 伊那市文化財(有形文化財) 平成元年5月22日 所在地 伊那市長谷溝口 この舞宮は以前、熱田神社拝殿の前にあった ため「前宮」とも呼ばれていた。記録によると 「神楽殿」となっている。昭和12年に活用す るのに便利な場所へと現在地に移転したもので ある。屋根は茅葺であったが平成元年に鉄板ぶ き屋根に改修された。舞宮の文字が意味してい るように、神前において踊りや芝居などの芸能 を神様に奉納するための舞台として使用されて きた。 当時、娯楽・芸能は自分達が作り出してきた。 いわば村人の文化創造活動の本拠となっていた のがこの舞宮である。 伊那市教育委員会
桑田薬師堂 このページの先頭へ
境内にある枝垂れ桜は樹齢数百年ともいわれ毎年見事な花を咲かせます。秋には黄金色のイチョウが楽しめます。また、「香時計」という香を燃やして時を計る珍しい時計が収蔵されています。
桑田薬師堂の創建は明らかではありませんが、本尊は薬師瑠璃光如来で天平の作とか、室町の作とかいわれています。霊験あらたかで、その昔、この前を乗馬のまま通ると落馬したりその日のうちに怪我をしたりしたといわれています。大正の初めまでは庵主様が常住していてご祈祷をしたりお札を下げたりしていました。
少し足を延ばして東側の小高い丘まで上ってみると山村の素朴な景観を味わえます。
桑田薬師堂の創建は明らかではありませんが、本尊は薬師瑠璃光如来で天平の作とか、室町の作とかいわれています。霊験あらたかで、その昔、この前を乗馬のまま通ると落馬したりその日のうちに怪我をしたりしたといわれています。大正の初めまでは庵主様が常住していてご祈祷をしたりお札を下げたりしていました。
少し足を延ばして東側の小高い丘まで上ってみると山村の素朴な景観を味わえます。
【現地解説板の内容】
桑田薬師堂枝垂桜・香時計 指定 伊那市文化財(天然記念物・ 美術工芸品) 昭和47年8月25日 所在地 伊那市長谷溝口 1.桑田薬師堂枝垂桜 桑田薬師堂の創設は詳らかでないが、信仰の 中心として里人の敬崇の的であった。境内の枝 垂桜は推定樹齢千年に近く、かつては天然記念 物として長野県指定を受けていたことがある。 現在では本幹も朽ちて往時の偉容はみられない が、春ともなれば今なおみごとな花をつけて、 道行く人の目を楽しませている。 信濃国伊那郡と申す処にて花見侍りしに 思出侍りける 散らぬまに立ちかへるべき道ならば 都のつとに花も折らまし 宗良親王のこの御歌は、この薬師堂の枝垂桜 をうたわれたものと里人は信じている。 2.香時計 薬師堂所蔵の香時計は、往時香の燃える速度 によって時間を測った珍しい器具であり、近隣 にないまれなものである。 伊那市教育委員会
常福寺(じょうふくじ) このページの先頭へ
太平山「常福寺」は曹洞宗のお寺で、本尊は華厳釈迦牟尼仏です(本寺は高遠町勝間「竜勝寺」)。
本堂には後醍醐天皇の第8皇子「宗良親王」像と伝えられる坐像が安置され、親王を偲ぶ資料が展示されています。
境内東裏の土手に春先いち早く福寿草が花開き春の訪れをつげます。4月半ば頃から境内西側の枝垂れ桜が見ごろを迎えます。5月半ばには牡丹につつまれ、そしてアジサイへと移り変わります。
【現地解説板の内容】
本堂には後醍醐天皇の第8皇子「宗良親王」像と伝えられる坐像が安置され、親王を偲ぶ資料が展示されています。
境内東裏の土手に春先いち早く福寿草が花開き春の訪れをつげます。4月半ば頃から境内西側の枝垂れ桜が見ごろを迎えます。5月半ばには牡丹につつまれ、そしてアジサイへと移り変わります。
【現地解説板の内容】
尊澄法「宗良親王」御木像 指定 伊那市文化財(有形文化財) 平成3年9月20日 所在地 伊那市長谷溝口 われを世に在りやと問わば信濃なる いなと応えよ峯の松風 後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で 尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争い のため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中 心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも 称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。 しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であっ た。 昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理 中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわ れた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部 には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手 観音と古文書が現れた。 古文書の終わりの方には、元中8年に至り、 尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」の お墓を作られ法像を建立された。法華経を写し てお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うた め金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記し てある。 御尊像が天台坐主であることは、お袈裟から も一目瞭然である。 伊那市教育委員会
御山(みやま) このページの先頭へ
常福寺境内の北側にある小高い山は御山(みやま)様と呼ばれ、後醍醐天皇の皇子「宗良(むねなが)親王」の陵墓であるといわれています。頂には親王の無縫塔が祀られています。
毎年春秋の2回、区民によりねんごろに法要が営まれています。
無縫塔までは急な階段を登りますが、その登り口には毎年春先になると福寿草が花を咲かせます。
また、御山の裏手(北東側)には小犬沢の渓流があり、せせらぎ豊かな憩いの場として区民に親しまれています。
【現地解説板の内容】
毎年春秋の2回、区民によりねんごろに法要が営まれています。
無縫塔までは急な階段を登りますが、その登り口には毎年春先になると福寿草が花を咲かせます。
また、御山の裏手(北東側)には小犬沢の渓流があり、せせらぎ豊かな憩いの場として区民に親しまれています。
【現地解説板の内容】
御山の遺跡 指定 伊那市文化財(史跡) 昭和49年3月1日 所在地 伊那市長谷溝口 古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃ま では老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が 腫れるといわれていたので、ここに近づく者は なかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石 碑とその近くにあった臼形の台石らしいものと を、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職 に相談したところ、円形だから僧侶のものだろ うといって寺の墓地に安置した。 昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」 「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓 石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に 「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月 一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法 親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王 子であることが明らかにされた。 その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、 毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。 御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示さ れている。 伊那市教育委員会
※宗良:むねなが、尹良:ゆきよし
大徳王寺城址 このページの先頭へ
興国元年(1340年、南北朝時代)に、北条時行(鎌倉幕府の執権北条高時の子、南朝側)がこの地に立てこもり、足利氏方の小笠原貞宗(北朝側)と4ヶ月にわたり対峙したと伝えられています。
この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
時行のその後の行動は不詳で、13年後の文和2年(1353年)、鎌倉竜ノ口にて殺されました。時行の死により北条家(得宗家系)は断絶しました。
この城址から北西方向(美和湖方面)を見下ろす四季折々の景観は見ごたえがあります。
この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
時行のその後の行動は不詳で、13年後の文和2年(1353年)、鎌倉竜ノ口にて殺されました。時行の死により北条家(得宗家系)は断絶しました。
この城址から北西方向(美和湖方面)を見下ろす四季折々の景観は見ごたえがあります。
中央構造線露頭 このページの先頭へ
中央構造線は日本列島が出来るころに形成された断層で、九州から埼玉県につながる日本最大の断層です。その露頭の一部をここで観察できます。
断層を挟んで西側(伊那山地側)には領家変成帯の岩石が、東側(南アルプス側)には三波川変成帯の岩石が接しています。領家変成帯は高温低圧作用を受けてできた岩石からなり、三波川変成帯は低温高圧作用を受けてできた岩石からなり、両者はまるで性質が異なります。大規模な断層運動により形成されたこの中央構造線は大変貴重な自然遺産です。
ここ溝口露頭は、南アルプスジオパーク(中央構造線エリア)のジオサイト(地質現象が観察できる場所)のひとつにもなっています。
断層を挟んで西側(伊那山地側)には領家変成帯の岩石が、東側(南アルプス側)には三波川変成帯の岩石が接しています。領家変成帯は高温低圧作用を受けてできた岩石からなり、三波川変成帯は低温高圧作用を受けてできた岩石からなり、両者はまるで性質が異なります。大規模な断層運動により形成されたこの中央構造線は大変貴重な自然遺産です。
ここ溝口露頭は、南アルプスジオパーク(中央構造線エリア)のジオサイト(地質現象が観察できる場所)のひとつにもなっています。
道標(みちしるべ) このページの先頭へ
美和郵便局の、国道152号線をはさんだ東向かい側の一角(原辻)に「右むら、左あきは道」と刻まれた道標があります。左の写真の向かって右端の高さ60センチメートル程の自然石がそうです。
またこの場所には常夜灯、庚申文字塔、秋葉山のお札入れなどが置かれています。
「右むら道」とは原組への道ということです。これらは以前美和駅付近にあったもので、道路拡張によって移転されました(長谷村誌第二巻474ページ)。
またこの場所には常夜灯、庚申文字塔、秋葉山のお札入れなどが置かれています。
「右むら道」とは原組への道ということです。これらは以前美和駅付近にあったもので、道路拡張によって移転されました(長谷村誌第二巻474ページ)。
旅人の利便を考えその安全を祈る往時の人々の心づかいにほのぼのとしたものを感じます。
また、溝口のこの辺りは秋葉(あきは)街道を旅する人々の交通の要所でした。かつて、人馬の休憩所としての茶屋や雑貨屋、旅館などが点在していました。
石仏(せきぶつ) このページの先頭へ
この道祖神場には、双体像のほか文字塔(表面に道祖神と文字が刻んであるもの)、馬頭観音像(?風化が激しい)があり、陰陽・奇石(古来から子孫繁栄、五穀豊穣を祈願してて祀られた、それらしい形をした自然石)もあります。
道祖神は、路傍や村界などに立って厄病や魔などが村内に侵入するのを防ぎ村人を守る神とされ、また旅人を導きその安全を祈る神でもあり、私たちにとって最も身近で親しみやすい神さまです。
天照皇大神宮碑、六手の青面金剛が邪鬼を踏んでいる庚申塔、一石六体地蔵尊、蛇の彫刻碑(雨虫大神)、丸彫り女性像の馬頭観音などがあり、造立時期は江戸時代中期から昭和初期までの幅広い年代にわたっています。
庚申塔は4塔あり60周年毎に建てられたものが順に並べられています。昭和五十五年のものが一番新しく、一番古いものは江戸時代後期のものと思われます。
馬頭観音は像塔・文字塔合わせて十数体あります。
3つ顔の真ん中に馬の顔の付いた冠をかぶって合掌している三面六手馬頭観音像と子供を抱いて蓮の花を持っている子安観音像は中でもひときわ目立っています。
ちなみに、全国で道祖神の数が一番多いのは長野県といわれてます。しかも、多彩な双体道祖神があることで知られています。
秋葉(あきは)街道 このページの先頭へ
秋葉街道は、諏訪から杖突峠を越え、高遠町的場から東高遠、長谷、分杭峠、大鹿、地蔵峠、上村、南信濃、青崩峠、水窪を通り、秋葉神社(静岡県浜松市=旧春野町)にある秋葉神社へ秋葉詣でをする街道で、古くから生活物資や生産物の輸送路としても重要でした。
国道152号線がこの秋葉街道沿を現在は走っていますが、古来の秋葉街道(旧道)は美和ダムに水没してしまったところや集落の路地を縫うように走っているところなどかなりくねっていたようです。
国道152号線がこの秋葉街道沿を現在は走っていますが、古来の秋葉街道(旧道)は美和ダムに水没してしまったところや集落の路地を縫うように走っているところなどかなりくねっていたようです。
googleマップ(溝口地区周辺) このページの先頭へ
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