あしあと (活動記録の目次/要約)


-2019.11.01-
◇訃報~会員のK.Nさんが永眠されました。ご冥福をお祈りいたします
-2019.08.11-
◇作業・話し合い~案内標識の修復が終わりました。その後、暑気払いを兼ねて話し合いました
-2019.05.26-
◇作業~熱田神社境内の掃除、案内標識の修復などを行いました(溝口郷づくり会20190526
-2019.05.11-
◇話し合い~今後の活動について話し合いました。代表が交代しました/会員5名増(計19名)
-2018.11.29-
◇イベント~名古屋の服部さん他2名がスケッチ旅行で訪れ、散策コースを案内しました
-2018.11.22-
◇話し合い~平成23年に設置した看板や案内板の修復について、今後の活動など(会議後懇親会)
-2018.03.15-
◇「宗長親王と井伊谷」の看板が設置されました
-2017.12.05-
◇話し合い~「宗長親王と井伊谷」の看板設置、散策路看板整備について(久しぶりの会合です)
-2017.09.07-
◇資料~『熱田神社勉強会シリーズ』(再編集版)を追加しました
-2016.09.29-
◇話し合い~秋祭り・ふるさと祭りへの参加、未来プロジェクトとの連携、今後の活動など(会議後懇親会)
-2015.10.10-
◇イベント~熱田神社秋祭りで当会のブースを設け手作りの記念品を販売しました(H27年溝口区秋祭り)
-2014.10.11-
◇イベント~熱田神社秋祭りで当会のブースを設け手作りの記念品を販売しました(H26年溝口区秋祭り
-2014.09.18-
◇話し合い~熱田神社のTシャツ追加発注、キーホルダーの追加作成などの意見調整をしました
-2013.10.13-
◇イベント~南アルプスふるさと祭りでも記念品を販売しました(第30回南アルプスふるさと祭り
-2013.10.12-
◇イベント~熱田神社秋祭りで当会のブースを設け手作りの記念品を販売しました(H25年溝口区秋祭り
-2013.10.10-
◇作業~絵馬の作成を行いました(その後会合、解散22:00、お疲れさまでした)
-2013.10.07-
◇作業~角柱お守り(熱田神社本殿落成250年記念)の作成を行いました(その2)
-2013.10.04-
◇広報~地元の新聞に当会の活動が紹介されました「伊那長谷の重文熱田神社、改修250年記念お守り、溝口区有志の会 配布へ
-2013.10.03-
◇作業~角柱お守り(熱田神社本殿落成250年記念)の作成を行いました(その1)
-2013.09.27-
◇作業~秋祭りの案内状(熱田神社改修時寄付者宛て)発送の手配を行いました「案内文
-2013.09.25-
◇話し合い~秋祭りに向けての取り組みの役割分担を決めました
-2013.09.24-
◇グッズ~熱田神社の「Tシャツ」が出来上がりました(秋祭りに着用、販売予定)
-2013.08.31-
◇話し合い~秋祭りに向けての取り組み内容を決めました
-2013.07.06-
◇話し合い~今年度事業の具体的な取り組み内容を決めました(その後、宴会)「ボード」
-2013.04.11-
◇交流会~地域の魅力を掘起こし集客につなげる一環として、昼間に散策、夕べに語る会を開きました
-2013.04.07-
◇話し合い~平成24年度のまとめと平成25年度の計画について話し合いました
-2012.12.31-
◇広報~地元の新聞に当会の活動が紹介されました「大蛇伝承の神社、本殿きょうライトアップ
-2012.12.30-
◇作業~「熱田神社絵馬(2013巳年)」を作製しました(100個、簡易シルク印刷3色刷り)
-2012.12.22-
◇作業~「熱田神社物語」を境内の舞宮に設置掲示しました/「簡易シルク印刷」の試し刷りをしました
-2012.11.21-
◇話し合い~当会の今後の事業展開、運営資金(出資金)などについて話し合いました
-2012.11.04-
◇話し合い~「熱田神社物語」(紙芝居風)の最終チェック、グッズの販売方法などを話し合いました
-2012.10.20-
◇作業~熱田神社のグッズ作りをしました(好評に付き増産!「熱田神社グッズ」)
-2012.10.14-
◇勉強会3~溝口公民館~「中世信濃に於ける幻の城 『大徳王寺城の戦い』 」(勉強会3)を行いました
-2012.10.09-
◇イベント~さわやか健康ウォーキングin長谷(上伊那医療生協健康づくり委員会主催)で当会のボランティアガイド(4名)が初活躍しました(ボランティアガイド初デビュー
-2012.10.06-
◇イベント~熱田神社秋祭りで当会のコーナーを設けグッズを販売しました(H24年溝口区秋祭り
-2012.10.05-
◇広報~信濃毎日新聞~地元の新聞社から当会の活動の取材を受けました(2012.10.06付記事
-2012.10.02-
◇作業~熱田神社のグッズ作りをしました(熱田神社グッズ
-2012.09.23-
◇話し合い~溝口秋祭り、勉強会(第3回)詳細の詰め等/集客ポスター完成(議事録20120923
-2012.09.01-
◇話し合い~各工程の進捗状況を確認しました/会員1名増(計14名)
-2012.07.28-
◇イベント~整備された小犬沢で魚のつかみ取りなどを行いました(約50名参加、「みんなで遊ぼう小犬沢」)
-2012.07.19-
◇話し合い~各工程の進捗状況の確認および担当の割り付けを行いました
-2012.06.16-
◇話し合い~今年度活動内容の詰めを行いました(H24年度事業行程表を作成)
-2012.05.27-
◇現地作業~散策コースのひとつ「中央構造線(露頭)公園」に集客用の看板を設置しました
-2012.05.12-
◇話し合い~勉強会の日程決定、活動項目の進度確認、内容検討を行いました(溝口郷づくり会だより120513
-2012.04.25-
◇現地学習~散策コース標識の防水塗装を兼ねてボランティアガイド用説明文のチェックをしました(説明文
-2012.04.16-
◇平成24年度地域づくり活動事業(継続)支援金が採択されました~事業名「楽しく歩こう溝口の郷」、団体名「溝口郷づくり会」
-2012.04.07-
◇話し合い~平成24年度の具体的活動内容について検討ました(溝口郷づくり会だより120413
-2012.03.10-
◇話し合い~懇親会を兼ねて平成23年度のまとめと次年度の方向性を語り合いました(溝口郷づくり会だより120311
-2012.02.28-
◇報告会~「平成23年度伊那市地域づくり活動支援金事業報告会」で活動事例を報告ました(活動報告書
-2012.01.29-
◇勉強会2~現地&常福寺~大徳王寺城趾案内看板除幕式&地元の講師を交えて宗良親王に思いを馳せる会を行いました
-2012.01.07-
◇話し合い~溝友館~今年の活動方向と勉強会2について検討しました(溝口郷づくり会だより120115
-2011.11.13-
◇勉強会1~現地~地元の講師を交えて熱田神社と桑田薬師堂についての勉強会を行いました
-2011.11.12-
◇広報~信濃毎日新聞~地元の新聞に当会の活動が紹介されました(2011.11.12付記事
-2011.10.29-
◇道標の設置~現地~散策コースの各要所に行き先をガイドする道標を設置しました
-2011.10.16-
◇話し合い~溝友館~案内看板用解説文、案内道標レイアウト、勉強会開催日程の検討を行いました
-2011.10.02-
◇話し合い~溝友館~散策ガイド設置場所、案内看板作成日程の検討等を行いました。会員1名増員
-2011.09.30-
◇散策ガイド完成~パンフレット「溝口の郷を歩こう」(オフセット印刷2,500部)が完成しました
-2011.09.11-
◇話し合い~溝友館~散策ガイドの最終確認、案内板の設置本数確定、御山例祭の内容検討等を行いました
-2011.08.20-
◇話し合い~溝友館~当会紹介チラシ(溝口区内全戸配布用)の確認、散策ガイドの最終チェック等をしました
-2011.08.05-
◇話し合い~溝友館~ガイド用資料、溝口区民への紹介用資料の検討、案内板進捗状況の確認等をしました
-2011.07.01-
◇話し合い~溝友館~散策ルートの決定、各見所の案内文の検討をしました。新しい仲間3名が加わりました
-2011.06.08-
◇話し合い~溝友館~各見所の調査結果を持ち寄りボランティアガイド用の解説資料の検討をしました
-2011.05.04-
◇話し合い~溝友館~「支援金」採択を受けて具体的活動スケジュールを検討しました
-2011.04.30-
◇申請事業が採択されました~ICTニュース~事業名「楽しく歩こう溝口の郷」、団体名「溝口郷づくり会」
-2011.03.01-
◇地域活性化を考える話し合い~溝友館~「地域づくり活動支援金」申請に当たり活動内容の詰めを行いました
-2011.02.13-
◇溝口の見所を視察~現地集合、現地解散~候補に掲げた見所を実際に皆で歩いてみました
-2011.02.10-
◇地域活性化を考える話し合い~溝友館~各人の思いを語り合い活性化に向けての方向付けをしました
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活動計画 このページのトップへこのページの先頭へ


1.活動計画書

活動計画書

※上図をクリックするとH24年度の活動計画書(PDFファイル)を表示します。

参考:H23年度活動計画書

 

2.事業工程表

平成24年度事業行程表

※上図をクリックすると拡大表示します。

参考:H23年度事業行程表

 

溝口郷づくり会だより このページのトップへこのページの先頭へ


  たより 1.120115  2.120311  3.120413  4.120513
 

活動記録

 

1.勉強会資料 このページのトップへこのページの先頭へ


 

1-1.桑田薬師堂について このページのトップへこのページの先頭へ


・所在地
 長野県伊那市長谷溝口桑田村二六六六番地
・枝垂桜
 昭和二十三年四月 長野県天然記念物指定
 昭和四十七年八月二十五日 長谷村文化財指定
・香時計
 昭和四十七年八月二十五日 長谷村文化財指定

一 由来

 桑田薬師堂は長谷溝口集落の南に位置し、集落を南北に通じる旧秋葉街道の沿道に位置している。同じ沿線上に熱田神社がある。
 この熱田神社については、『伊那谷長谷村の民俗』編に、その由来をおよそ次のように記されている。
 「日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途甲斐国から険路を越え信濃国へ入り、山を下りかわらに出られた。その時大蛇が現れて行く手をさえぎったので、大蛇を退治した。時におびただしいい流血で河原が赤く染まった。赤河原の地名はその由縁であるという。尊が大蛇の頭を携えて、溝口の里に来て大きな桑の木の下に行宮を作り、そこに大蛇の骨を埋め里人の苦しみを除いたといわれる。今この地を「桑田」といっている。」(下略)
 字宮の久保に鎮座している熱田神社付近にも若干「桑田」の地名が存在するが、実は桑田村の「桑田薬師堂」付近にも「桑田」の地名が密集している。熱田の森と桑田薬師堂とはたいへん似通った共通点があるが、桑田薬師堂については、由来とか縁起についての記述が見当たらない。次に参考までに溝口地区内の「桑田」地名を掲げる。

 参考・溝口地区内 字桑田の地名該当地番(平成七年)
地番 二〇八七 二〇七九 二〇七五 二〇四六 二〇四五 二〇三六 一九九七
小字名・他  〃  〃  〃  〃  〃 桑田 宮ノ久保・熱田神社
二六六六 二二七六 二二一二 二二一一 二二〇八 二二〇七 二〇九四 二〇九一
薬師堂・常福寺 堂南  〃 薬師堂前  〃  〃  〃 桑田

二 建造物と佛像

(イ)建造物
 薬師堂創建の年代については不明の点が多々あるが、保管中の鰐口銘に寛文二年(一六六二)とあることから、それ以前にここにあったことは確実である。次に有力な探索方法として境内の古木枝垂桜の樹齢を知ることである。通常此の種の桜は個人の屋敷内に植えられない。神社仏閣堂宇など公共用地であろう。
 昭和二十三年四月入野谷、伊那谷屈指の古木名木として長野県天然記念物に指定されている。幾星霜を経た今日、今尚健在で桑田の地に現存する老木を見る時、その古ここに堂の存在を示す唯一の証であると言っても過言ではなかろう。
 主幹の空洞化が著しいこの桜は、記録によれば周囲一丈一尺とも記され、また樹齢数百年―八百年種々様々である。堂建立がこの古木の樹齢と一致することはほぼ間違いないと思われる。
(ロ)薬師如来本尊(二体)
 木質、技法、台座。以上三つのうちどれをとっても素朴で古い。今となって材質を知るよしもないが各所に蚕食(むし喰い)のあとがはげしい。彫刻の技法は微細であるが、全体的に素朴である。長年月を経たこともあってか、佛像自体が軽い。
 最初に目を引くのは台座である。二体とも素朴な台座に特色がある普通台座は驕奢華美の粋をつくすが、ここではかすかに線刻が判明できる程度であり、きわめて素朴である。佛像彫刻の草分け時代を思わせるものがある。
(ハ)本堂内の佛像
 最近の棟札によれば、昭和十一年四月に本堂が竣工されている。古道端にある旧本堂のうしろへ約二メートルの位置にある。鉄板葺き寄せ棟造りである。両建物(旧本堂と新本堂)は廊下によって連結している。
 本殿は間口一杯に須弥壇によって占められ、中央に薬師如来立像、坐像の二体、その左右に日光、月光菩薩が脇侍として配置され、『薬師三尊』という形式に適っている。さらに須弥壇の左右に薬師如来の眷属として、やはり脇侍として十二支神将が夫々六体宛配置されている。(写真参照)
(二)参考資料
<◆鰐口 銘>
 奉掛薬師如来鰐口
 寛文貮年九月吉日
 信州高遠入之谷溝口村
 願人  小松茂兵衛 中山彦左衛門
 惣村中寄進也 願人 保科新兵衛 方辰坊

<本堂建立棟札>
 臨時委員   村世話役 保科英雄
  西村又衛       西村安衛
  中山義男
 薬師瑠璃光如来 維持 昭和十年起工
       仝 拾壹年四月六日竣工
 宗屋根棟梁     越後
  美篶村 伊藤勝平 武藤六三郎
 大工棟梁 中島福司 飯田弥七 伊藤今朝平

 <十二神像 『佛像巡礼事典』より>

三 長谷村発行、桑田薬師堂関係記述一部抜粋

(イ)桑田のお薬師様 昭和四十八年刊
 溝口桑田の上方に、古いお薬師様のお堂がある。今は脇道になってしまっているが、昔は人通りりの多い本道であった。昔そのお薬師様の前を馬に乗ったまま通ると、落馬するか、その日のうちに怪我をした。それで人々は皆、お薬師様の前を通る時は、必ず馬から下りて、礼拝をして通るようになった。それからは落馬や怪我をする人がなくなったという。
(ロ)桑田薬師堂の枝垂桜・香時計 昭和五十一年刊
 ◆はじめに
 桑田薬師堂の創建の時は明らかではないが、本尊は薬師瑠璃光如来で天平の作とか,室町の作ともいわれている。霊験あらたかで、昔時この前を乗馬のまま通ると落馬したり、その日のうちに怪我をしたりしたといわれている。江戸初期にこの堂はあったらしく堂正面の鰐口に総村中安全、奉掛薬師如来鰐口、寛文二年九月吉日の銘が刻んである。また大正の初めまでは庵主様が常住していてご祈祷をしたりお札を下げたりしていた。
 ◆枝垂桜  注 文化財指定済
 この堂の境内に樹齢数百年と思われる枝垂桜の老木が一本ある。昭和二十三年四月長野県天然記念物に指定され左のように報告されている。
 樹の形態・シダレザクラ・周囲一丈一尺 幹は半面腐朽のため片面廻り。
 樹高約六間  (下略) 
 ◆香時計  注 文化財指定済
 薬師堂に一個の香時計がある。写真でも見られるとおり、引き出しのついた台の上に箱のような容器があり、尚その上に桟を組んだふたがのせてある。

四 建物の現況

 道路に面して旧本堂があり、その奥に昭和十一年竣工した本堂がある。旧本堂は茅葺平屋寄棟造りである。構造材の各所に「ホゾ」穴があり、何回か建て替えられたものと思われる。建て替えの過程により旧来あったはずの斗?などの複雑な組木方式はほとんど見当たらない平凡なたたずまいである。建坪約二〇坪である。
 昭和五十一年刊の『長谷村の文化財』によれば大正の初めまでは庵主様が常住していて、祈祷、お札下げをしていたようである。
 旧建物の奥の本堂は約二メートル間隔をおいて渡廊下で結ばれている。鉄板葺き寄棟造りである。最奥の須弥壇に佛像が配置されている。建物の一部に斗?の一部が見受けられる。建坪約三坪である。

五 境内石造物

 境内北側に石造物が十数体配列されているが、かつて村全域の石造文化財が調査され『長谷村の石造文化財』として平成九年刊行されているので、これを引用してこちらに掲げる。

六 植生

 ◆枝垂桜(しだれざくら)
 昭和二十三年四月伊那谷屈指の名木古木として長野県天然記念物に指定を受けている。この桜樹は、旧秋葉街道の沿線上に今尚咲き誇っている。この樹齢と薬師堂の創建と深くかかわっていることは疑う余地がない。元木の南約四~五メートルの所には二世の枝垂桜が旺盛である。
 ◆銀杏(いちょう)
 旧秋葉街道の沿線上に前記の枝垂桜と共に樹勢極めて旺盛である。

七 総括

  右薬師堂の今後の維持管理について
 長い歴史の経過をたどった由緒ある薬師堂を、市的立場で永久保存を早急に考慮すべきと思われる。

八 参考文献 他

  写真撮影、聞き取り調査他
  協力者
   中山 重幸 中山 源一 中山 和文 他

  平成二〇年三月二十五日

※桑田薬師堂調査報告書(伊那市文化財審議委員 久保村覚人)より引用。

【担当:中山(和)】
 

1-2.宗良親王について このページのトップへこのページの先頭へ


 宗良親王(1311~1385?)[むねよし/むねなが しんのう]

 700年前の、南北朝対立の時代に、父 後醍醐天皇 母 歌道派の二条為子のもとに生まれる。動乱の世に 父帝の命を受け 南朝の皇子として吉野、遠江、越中、越後、信濃に生涯を転戦・敗戦する傍らで、歌人として多くの秀歌を詠む。残された歌と詞書からは時代の悲劇に遭遇した類い稀な詩心が、王朝の風体を護る歌を通して、寂寥に喘ぐ様が伝わる。現在の伊那市長谷から諏訪へ赴く山中深き峠にて、逆賊に迎え撃たれてその生は終焉を見たようだ。山に深く隠れ死す運命を予見していたか、歌が伝わる。
 「我を世にありやと問はば信濃なるいなと答へよ嶺の松風」(そんなことは最早望まれまいが、万が一にもこの我が身のことを猶生きて世に居るやと問う人あったならば、否々、既にこの世を去られたか、行方もわからぬと、我に代わって、返事してくれよ、此の伊那の山の松風よ。)(川田順)それから600年後の昭和15年5月12日長谷溝口の常福寺本堂屋根裏から僧形の宗良親王の坐像とその胎内中に古文書が発見され、その後常福寺に近接する御山に親王の子のユキヨシ親王が墓所を造営し無縫塔を祀ったことが判明した。宗良親王が南朝の再興をかけて山城をめぐり峠を超えてこの地を行き過ぎられた往時の御姿が偲ばれる。なお現在も当溝口地区では春と秋に宗良親王奉賛会を開いている。
 宗良親王の事跡ついて、歴史愛好家や散策派ならば、南北朝時代の南信濃の街道を追想し山城や峠道を辿り学ぶ楽しみ、また文学的・文化的関心からは親王の残された季花集、新葉和歌集を味読する楽しみ が、いまだ秘境の事柄として残されている。

【担当:空架】

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宗良親王陵(御山様

 南北朝時代、後醍醐天皇の第三皇子(または第五皇子)の宗良親王は、足利尊氏ら北朝軍と対峠し、現在の大鹿村大平城を本拠地としていた。信 濃の国諏訪氏は南朝方宗良親王を助け、大平城と諏訪の大神を結ぶ秋葉街道は南朝方にとって重要な道であった。「新葉和歌集」や「李花集」撰者で、 歌人としても知られる宗良親王はこの入野谷にも滞在し、数首の歌を詠んでいる。

 われをよにありやととわばしなのなるいなとこたえよみねのまつかぜ
 (桑田薬師堂のさくらを詠んだと言われる歌)

 明治中期、溝口常福寺境内横の小山付近の沢で円形の石碑を拾い上げ、寺の基に安置しておいた。昭和6年、宗良親王の調査に来た郷土史家がこ の石碑を見、文字を読んだところ正面に十六弁菊花御紋章の下に「尊重法親王」と書かれており、その左側に「元中乙丑十月一日尹良」と刻んであ り、まだ終焉の地の判明しなかった宗良親王の御墓であることがわかった。そして昭和15年、常福寺改修の際天井裏より木像が落下し、これには青 銅製の千手観音像と共に胎内文書が隠されていた。これに宗良親王が逆賊により落命し、子尹良親王がその亡骸をこの地に埋葬したことが記されて いた。また、昭和6年には常福寺位牌堂から親王に随従して戦死した新田一族六十余名の老若男女の戒名、俗名の書かれた位牌が発見されている。
 当地溝口の住人は古くからこの小山を「御山様」と呼んで尊び、5月と10月の年2回法要を行い、戦いを嘆き悲しみ、歌を愛した平和主義者の宗 良親王の霊を慰め、慕っている。

【担当:中山(勝)】
 

1-3.大徳王寺城について このページのトップへこのページの先頭へ


 南北朝時代、信濃の南朝方が伊那で挙兵し、徹底抗戦した城と、古文書に記されている。
 この城の存在はその後 歴史の闇に掻き消えてしまったが、その所在について有力な説として挙げられるのが、ここ伊那市長谷溝口の集落と里山の一帯である。研究者の熱心な考究によると、その城は15万坪もあったと推定され 広域の独特な構築がなされていた。以下概略。
 現在の常福寺域の上手には上ノ城(地名もあり)、丸山(六角城)、また県道をはさんで下ノ城(現在の中央構造線断層のある地)があったことは判明している。この三城に加えて、背後には御殿山、峰林の平坦な頂きを控え、また秋葉街道が貫通して大鹿広河原、遠江へ、さらには背後の山城越えに多くの峠道が交錯して諏訪、富士見、甲州へと、南朝がかろうじて支配する地域につながっていた。したがってこの地が南朝の重要な攻撃拠点として また撤退ルートの確保地として集落全体を要塞化していたというのである。
 さて1340年、北条時行が育ての親、諏訪祝頼継と結束してこの大徳王寺城に挙兵し、北朝方の小笠原貞宗とその援軍、美濃国守護土岐頼遠が包囲する中、4ヶ月もの間、籠城した末に開落した(城に火を放たず)。その後、この城はしばし不住となったらしく、やがて宗良親王が再びこの城にて挙兵したとある。やがて1394年応永元年、小笠原氏長がのちの名の溝口城を占居し溝口氏を名乗ることになる。
 では大徳王寺城の大徳王寺という寺はいずこかの問題がある。溝口区の五十目という土地(常福寺の上方)に石仏が多く何らかの寺院跡が認められ、古には大伽藍があったことが推測されている。また高遠に残る寺院開基帳にも「溝口・松風峰大徳王寺・開基 明光大徳聖人・弘安元年」と記載あることによって推測するに、まず寺の開祖の名前を冠した寺が始まり、その地の信仰を元に城が命名されたとも考えられる。

【担当:空架】

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大徳王寺城の戦い

 鎌倉幕府衰亡の時、実権を握っていた執権北条高時は後醍醐天皇の命により新田義貞軍の鎌倉総攻撃により破れる(1333年)。その時、高時の子、北条時行は信濃の諏訪氏に庇護される。その頃、足利尊氏が新田義貞の功績を横取りして鎌倉に入る。
 時行は二年後、鎌倉を奪還するため信濃より挙兵し、新田軍を撃破し、尊氏の弟直義を追い落とす。しかし、尊氏の来援により鎌倉占領は二十日間に終わる(中先代の乱、二十日先代ともいう)。時行は再び鎌倉を脱出。この戦いで、尊氏は後醍醐天皇の命に従わず鎌倉に居座ったため、足利尊氏賊軍、新田義貞官軍となる。(南北朝の対立)
 時行は後醍醐天皇率いる南朝方に組し、北朝方尊氏軍と攻防を広げる。興国元年(1340年)6月24日、時行は信濃国伊那の大徳王寺城に挙兵、足利尊氏方の信濃守護小笠原定宗率いる大軍に同城を包囲猛攻を受けるが、要害堅固、決着つかず長期戦となる(守谷貞実手記他)。4ケ月後の10月23日、兵糧つき満身創痍して落城、時行は同城を脱出する。時行その後の行動は不詳、13年後の文和2年(1358年)鎌倉竜ノ口にて殺される。

 歴史的には大徳王寺城の場所は不明とされているが、常福寺に伝わる宗良親王の遺物等から、この地に大徳王寺が存在した可能性は否定できない。

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大徳王寺城祉

 溝口常福寺に隣接する宗良親王陵と伝わる「御山様」の後方高台に、六角形の平地がある。この地は鎌倉幕府滅亡のとき、南北朝の戦いのきっか けとなる事件、中先代の戦いの中心人物である、鎌倉幕府最後の執権北条高時の子時行が、北朝足利尊氏率いる信濃の守護小笠原氏と4ケ月に渡り 対峙したことで知られる大徳王寺城址と伝えられている。この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の 城であった。遂には兵糧が尽き時行は後方の山中に逃れる。
 大鹿村大平城に居住した宗良親王は、この戦いには参戦していないが、後の諏訪氏と連携するべくこの秋葉道を用い、大徳王寺にも滞在した。南 朝方にとって重要な寺城であった。
 大徳王寺がどこにあるのかは謎とされているが、高遠領内寺院開基帳(寛政10年、1798年写)には

 溝口 太平山常宿寺  来芝充○大和尚 永禄二年(1459年)今二百十八年 →1241年?
 溝口 松風峰大徳王寺 開基明光大徳聖人 弘安元年(1278年)今回百九十九年に成る→1079年?

と記述があり、大徳王寺は常福寺とは同一ではないが、溝口に存在したことがわかる。その後大徳王寺は常福寺に合祀したようである。 (大正十年発行の上伊那史によれば常福寺は真言宗に属し、呑海和尚 文治三年(1187年)の開創、高遠町香福寺の末であり、開山当時は真言宗 であったが、天正六年(1577年)あるいは永禄二年(1459年)わけあって曹洞宗に改める、とある。)

【担当:中山(勝)】
 

1-4.熱田神社について このページのトップへこのページの先頭へ


◇まずは、紙芝居「熱田神社物語」(溝口公民館作成)をご覧ください。
◇概要は、「熱田神社説明資料 その1その2 」(PDFファイル)を参考にしてください。
パンフレット(外部リンク)もあります。

【担当:中島(章)】

【以下追記:坂野】

 
◇「熱田神社勉強会シリーズ」  QRコード付ガイドは→こちら

(2011年11月に録画・編集、2017年8月に再編集したものの改訂版です)



【追記以上:坂野】


 

1-5.常福寺について このページのトップへこのページの先頭へ


◇宗派:曹洞宗
◇山号:太平山
◇本尊:華厳釈迦仏(けごんしゃかぶつ)
 礼拝するときは「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」とお唱えする
◇開山:来芝充胤大和尚(らいしじゅういん) 曹洞宗
◇開基:永禄二年(1,559年 ※「常福寺のあゆみ」には1,459年とあるが誤りであろう)
(できごと:この年徳川家康の嫡男信康誕生。信長の娘徳姫と結婚するが不仲になり、武田勝頼と内通を理由に信長は家康に対して信康の切腹を要求し、切腹を命じた。)
◇開創:呑海阿闍梨和尚(どんかいあしゃり) 文治三年(1,189年) 真言宗
(できごと:文治元年3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。文治5年7月、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす。)
◇住職:第五世 松田泰俊大和尚(まつだたいしゅん)

 常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺(かんす、住職に替わる)をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚(だいがんしゅせつ)を勧請開山(かんじょうかいさん、師を開山とした)として今日に至り、正住職五代目となる。
 以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
 興国5年(1,344年)信濃国伊那郡大河原(現在の大鹿村)に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。

 われをよに ありやととわば しなのなる いなとこたえよ みねのまつかぜ

 和歌をこよなく愛した宗良親王の李花集の一句である。松風峰大徳王寺は宗良親王ゆかりの寺であり、その流れを汲む太平山常福寺には親王を偲ばせる種々の宝物が残され、毎年春秋2回の宗良親王法要が営まれる。

 四季折々の草花や樹木を楽しむこともできる。境内東裏の土手には春先いち早く福寿草が開花し春の訪れをつげる。4月半ばを過ぎると境内西側の枝垂れ桜が見ごろを迎え、5月半ばには大輪の牡丹の花、そして梅雨に入ると咲き乱れるアジサイの花々...。

【担当:中山(勝)】
 

1-6.中央構造線について このページのトップへこのページの先頭へ


中央構造線公園には次のような解説板がありますので参考にしてください。

・ あづま屋付近 「中央構造線(MEDIAN TECTONIC LINE)
・ 観察現場 「溝口露頭部概略図

【担当:中山(友)】
 

1-7.石造物について このページのトップへこのページの先頭へ


 溝口の郷をゆっくりと歩いているとあちこちで様々な石造物に出会います。男神と女神が仲睦まじく寄り添って祝言でもあげているような石像(双体道祖神)、四つん這いの人(実は邪鬼)を踏みつけていかめしい顔でこちらを睨みつけている仏像(青面金剛=しょうめんこんごう)、馬の頭の冠をかぶって合掌している観音像(馬頭観音)、「庚申塔」・「道祖神」などの文字が刻まれたもの(文字塔)、行路の辻に置かれた道標等々。風雨にさらされて形相や文字などが判別できない石造物のほうが多いのですが、古来ムラの人々がこの目の前の石仏(神さま)に手を合わせてきたことを思うといつしか愛着が湧いてきてしばし佇み眺め入ってしまいます。

 さて、ここでいわゆる石造物について少し整理してみたいと思います。

1)石造物の歴史


 石仏は奈良時代に始まり古いものは寺院の仏像と同様、支配者が権力の象徴として造立したもので美術的にすぐれたものが多く残っています。
 庶民が造立するようになったのは江戸時代でそのほとんどは江戸中期以降です。しかもあくまでも屋外に祀ることを想定して五穀豊穣と無病息災を願い石仏を造立しました。また、災厄から身を守り生活の安定を願って良縁・子宝・子育て・延命とじつに様々な神さまとして祀っています。山や川や水、自然石までも神さまとして祀りました。特に庚申信仰は盛んで「庚申塔」や「青面金剛像」が多く造られました。

2)いろいろな石造物


 石造物と出会い、興味を持ちだすとさらに深く知りたくなります。どんな願いがこめられ、なんという名前で呼ばれているのだろうか?と。そこで、よく出会う石造物についてまとめてみました。
名称 特徴
庚申塔  「庚申信仰」~~人の体内に宿る「三尸(さんし)」という三匹の虫が庚申日の夜、当人が眠ると体内から抜け出し昇天し、当人の罪過を天帝にくまなく告げ、天帝はその罪過の軽重に応じて当人の命を縮めるのだという。ただ、三尸は人が目覚めているときは庚申の日といえども体外に出ることができないので、庚申日の夜は眠らずに過ごして罪を天帝に訴えられないようにすれば免れる~~によって庚申待の講を組織し、行事をおこない、供養のために造立した塔のこと。
 庚申とは干支でいう「かのえさる」のことで六十年に一度回ってくる。日にちにも適用されるので六十日に一度は庚申日が回ってくる。
 上部に月日、主尊に邪鬼を踏まえた青面金剛、三猿二鶏という定型のほかに主尊が異なるもの、猿や鶏の無いもの、文字だけの塔など実に多様で長い歴史の変遷を物語っている。
道祖神  村や家に厄病神などが入ってくるのを塞ぐ神(塞の神)であると同時に行路の安全を守る神でもある。また道祖神信仰は子孫繁栄の習俗とも混合して良縁を得る、子授け、安産、さらには性病の治癒の祈願もするようになった(性神)。
 男女二神が彫られているものを「双体道祖神」といい、この双体像が最も普通の姿である。表面に道祖神と文字が刻んである塔もよく見かける。またそれらしい奇怪な形状をした自然石や陰陽石なども道祖神の信仰対象として祀られていることが多い。
 茶碗のかけらをよく見かけることがあるがそれは、厄落としに道祖神に向かって茶碗を投げて壊す風習のあることを物語っている(厄落としも引き受ける)。
馬頭観音  馬頭観音は「六観音」のひとつで当初、仏教的な造立だったが、頭に馬頭をのせていることから、時代が下るにしたがい庶民から馬の守護神のように思われ、大切な馬の健康や死んだ愛馬の冥福を祈る対象とされた。
 一般的には簡単な文字を刻んだ供養塔が多く、馬頭観音・馬頭観世音・馬頭尊・馬頭明王などと刻まれている。
 たいていは死馬を葬ったところとか山道などの交通の難所、追分などに設置され、道標を兼ねたものも多い。
天照皇太神宮  伊勢神宮の皇太神宮信仰が中世以降全国的に広がり、各地に「伊勢講」が組織され、代参されるようになった。代参が全員完了したときなどに記念して碑が建てられた。
 江戸時代になると、左右に八幡大社・春日大明神とか秋葉山大権現・金毘羅大権現などを加えて三神を三尊仏になぞらえて信仰するようになっていった。
太子塔  聖徳太子は建築、木工の守護神として崇拝され、大工や木工職人の間で「太子講」が行なわれた。この講で造立した供養塔。
甲子塔  甲子(きのえね)の日の夜に福の神「大黒天」を祀って講中で甲子待の供養行事を行う。この講で造立した供養塔。子待塔(ねまちとう)ともいう。
巳待塔  己巳(つちのとみ)の日、または巳(み)の日に、講中や個人で巳待ちの行事(夜遅くまで起きていて精進供養をするなど)を行う。このために造立した供養塔。主本尊は弁財天とされている。
月待塔  特定の月齢の夜に集まり月待ちの行事(念仏を唱和したり、雑談、飲食あるいは集落の決めごとをするなど)を行う。その仲間で立てた供養塔。十三夜・十九夜・二十二夜・二十三夜などがある。
題目塔  「法華経」の題号である「南無妙法蓮華経」と刻まれた念仏供養塔。日蓮宗の寺院に見られる。
名号塔  「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた念仏供養塔。
 「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰命する」という意味。この六字の念仏称名は阿弥陀仏を本尊とし信仰の中心とする浄土門諸宗(浄土宗、真宗、時宗など)では重視されており、天台宗や禅系統の宗派でも重んじる風潮があったとされている。
読誦塔  経文を読誦(どくじゅ=声を出して経文を唱えること)することによって功徳を得ることは仏教修行の一つである。その読誦記念とし造立した念仏供養塔で、経典の名称や回数が記録されている。
万霊塔  三界万霊塔ともいう。万霊(この世に存在する一切の霊)を多くの人に供養してもらうことを願って建てた念仏供養塔。三界とは生命あるものが住む三つの世界、欲界・色界・無色界、あるいは過去・現在・未来を指す。
廻国塔  「大乗妙典」(法華経)を66部書き写し、全国66カ国を巡り、国ごとに代表的な社寺1カ所に1部ずつ納めることを「廻国供養」という。これを行う行者を「六十六部」とか「六部」と呼ぶ。この難行を果たした記念に建てた巡拝塔。
巡拝塔  「講」という巡拝組織を作りこの中の数人が聖地に代参するという、その信仰の証として建てた巡拝塔。
 例.「秋葉山」(火防=ひぶせ)の神、「成田山」病魔調伏退散の仏、「戸隠山」雨乞いの神
宝篋印塔  「宝篋印陀羅尼経=ほうきょういんだらにきょう」を納めた経典供養塔。この塔に礼拝供養すれば、生きている間は災害を免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わることができる、とされる。
五輪塔  空風火水地の「五大」を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて造立した供養塔。上から空輪=宝珠形、風輪=半月形、火輪=三角形(または笠形、屋根形)、水輪=円形、地輪=方形の五つの部分からなる。
山神  山の神は、春になると山から里に下り田の神(豊耕の神)となり、秋には山に帰って草木の神となるため、農村では山神信仰が盛んであった。
 猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。
 また山の神は女性神であり、児女守護、安産、子宝の神としても信仰された。
水神  川や泉など飲料水やその他の用水を得る水汲み場などに祀られていて、川の神や井戸神とされている。また田の神とも結合して、苗代や田の水口にも祀られている。

 日本は神仏混淆(こんこう)が基盤にあり、拝めるものには何にでも救いをもとめ、石造物を造立し供養しました。水は「弁財天」、子育ては「子安観音」、病気は「薬師如来」、極楽往生は「阿弥陀如来」というように。

3)石造物の見分け方


 石造物の簡単な見分け方の一例を紹介します。
石造物 見分け方
青面金剛 ・邪鬼を踏みつけ猿が刻まれている
蚕神 ・桑の枝を持つ女神形
如来 ・頭に小さなコブ状のものがある(螺髪=らはつ、髪の毛を象徴したもの)
※如来にもいろいろあり、印相(手の組み合わせ)で区別する方法があるがここでは省略
地蔵(菩薩) ・頭をまるめている、通称「お地蔵さん」
聖観音(菩薩) ・宝冠に小さな仏がある(小さな仏は阿弥陀如来)、蓮の華を持っている
馬頭観音(菩薩) ・頭上に馬のお顔が刻まれている
如意輪観音(菩薩) ・片膝を立てて考える姿勢をしている
十一面観音(菩薩) ・頭上にたくさんのお顔がある
千手観音(菩薩) ・体からたくさんの手が出ている
子安観音(菩薩) ・子供を抱いている
  ※如来=悟りを開いた者、菩薩=悟りを求めて修行する者


 それでは、溝口の石造物を見て参りましょう。

4)溝口の石造物


◆原集落の民宿じんでん向かい側(原才ノ神)には「双体道祖神」などの石仏がまとめられています。ここには、双体像のほか文字塔(表面に道祖神と文字が刻んであるもの)や馬頭観音像(?風化が激しい)があり、陰陽石もあります。以前は今の位置よりもう少し東(現在の小犬沢橋脚辺り)にありました。

◆秋葉街道沿いにある尾田屋集落の中山養蜂園前(尾田屋南辻)には十数個の石造物がまとめて置かれています。天照皇大神宮碑、六手の青面金剛が邪鬼を踏んでいる庚申塔、一石六体地蔵尊、蛇の陽刻碑、丸彫り女性像の馬頭観音などがあり、造立時期は江戸時代中期から昭和初期までの幅広い年代にわたっています。

◆同じ尾田屋集落の秋葉街道沿い(中山養蜂園から北側へ150mほどの処)にも秋葉山のお札入れ、金毘羅大神碑、秋葉山大神碑、富士山参詣供養塔などがまとめて置かれています。また、この道の反対側の桜の木陰にも道祖神などの石碑が数体並んでいます。

◆南郷集落にも石造物が一堂に集められている処(南郷堂上)があります。徳本名号塔(南無阿弥陀仏と刻印)、蚕神文字塔(蚕玉大神と刻印)、月待供養塔(二十三夜塔と刻印)などです。この他にも庚申塔(4体、昭和五十五年~江戸時代後期?)、子安観音像、馬頭観音(像塔・文字塔合わせて十数体)など、多数まとめられています。

◆ 美和郵便局の東側の国道152号線をまたいだ向かい側の一角(原辻)に石造物などがまとめて置かれています。ここに道標があります。手前右端の高さ60センチメートル程の自然石らしきものがそうです。風化が進んで読みにくいのですが「右むら、左あきは道」と刻まれています。「あきは道」とは秋葉街道(古道)のことで、「右むら道」とは原組への道を指しています。この道標は以前、美和バス停付近の辻にあったそうです。
 道標は、木立に印をつけたり木の枝を折ったりまたは石を積んで方向を示したりという原始的な形から始まり、自然石や石柱に刻むようになり道標として独立していったものです。
 この一角には、常夜灯と文字が刻まれた石灯籠や秋葉山のお札入れの他に、庚申の文字が刻まれた庚申文字塔が4つ、大黒天・蚕玉大神・秋葉大神/金毘羅大神・駒岳神・摩利支天・天神の文字が刻まれた文字塔が各々1つずつ、それに墓石が1つあります。

◆その他次の場所にも石造物群があります。

中山集落の白山公園登り口(中山集会所の東隣)
中山集落と中島集落の境(中山カサボトケ様跡)
中島集落と上城集落の境の辻
上城集会所の南隣
上城のイシボトケ地籍
上城小犬沢沿いの辰の口地籍
常福寺境内(北側)
宮の久保集会所の前
熱田神社境内(本殿の南側)
桑田薬師堂境内(本堂の北側)

 実にたくさんの石造物があり、そのひとつ一つに先人達の深い願いが込められています。今も昔も変わらない信仰心というものをいつまでも大切にしていきたいものです。

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参考図書
・「石仏巡り入門-見方、愉しみ方」日本石仏協会編、発行所:(有限会社)大法輪閣
・「石仏の楽しみ方」日本石仏協会編、発行所:晶文社出版(株式会社)

【担当:坂野(心)】
 

1-8.巨木名木について このページのトップへこのページの先頭へ


 地区の歴史を見続けてきた巨木に触れればその容姿に心洗われる思いがする。

(1)東山の傘松(からかさまつ
 東山鹿嶺林道を登ると「御平」(おだいら)と呼ばれる地籍に至る。ここから作業道を西へ 100mほど入ったところに傘状をした赤松の大木がある。枝の張りが23m余に及び、根元 のすぐ上から太いたくさんの枝を四方に伸ばした見事な松である。全体を見れば傘のようで あり、「傘松」と呼ばれている。南非持には天狗が舞い降りたと言われる「円座松」があり、 ともに銘木とされている。

(2)薬師堂の枝垂桜
 桑田地籍の薬師堂に枝垂桜の古木がある。樹の半分が朽ちているが毎年春に美しい花を見 事に咲かせる。

(3)熱田神社のケヤキ
 国指定重要文化財熱田神社の中庭に一際大きなケヤキがある。幹周り5m余りあり、高さ 30mはあろう。天に枝を広げた姿はなかなか美しいものである。

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引用文献
・伊那市教育委員会「南アルプスの村・長谷 巨木名木」

【担当:小出(順)】
 

1-9.3つの峠について このページのトップへこのページの先頭へ


 峠は昔から人馬の往来が盛んで物資の交流や生活文化が伝えられた。峠はその先が見たく なる欲望に駆られる場所である。

(1)新山峠(にゆうやまとうげ)
 溝口集落の対岸、通称西山又は向山と呼び三ッ界山の稜線を南へ下ったところにある峠で 旧富県村新山へ通ずる峠である。溝口と新山との縁組も行なわれており、交流も盛んであっ たことが伺える。

(2)南郷峠(なんこうとうげ)
 この峠から眺める景色は実にすぼらしい。いわゆる絵になる景色だ。南郷集落の上方にあ る峠で反対側は黒河内の黒川である。峠には占い松がある。林道大沢線がこの峠を巻くよう に開かれている。

(3)空峠(そらとうげ)(出合峠)
 溝口と非持から来た道が出合い、戸台の大久保へ通じる峠である。空峠といわれるように、 鹿嶺台地の南端に位置し、溝口から東の空を眺めると、確かに広い空に通ずるかのような感 じさえする峠である。往時「大久保道」と呼ばれ、戸台集落との交流に重要な使命を果たし た峠である。

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引用文献
・伊那市教育委員会「南アルプスの村・長谷 むらの峠」

【担当:小出(順)】
 

2.散策ポイント ~ボランティアガイド用説明資料~ このページのトップへこのページの先頭へ


 

2-1.桑田薬師堂について このページのトップへこのページの先頭へ


 この土地に語り継がれている日本武尊の物語の中で「村人を苦しめていたヤマタノオロチを尊は戸台の河原で仕留めた。その時飛び散った鮮血はあたりを真っ赤に染めた。この河原をその後赤河原と人々は呼んだ。尊はその後退治した大蛇の首を溝口の郷の桑の大木の根元に埋めた。」とあります。
 北側500mほどのところにある重要文化財熱田神社から桑田薬師堂周辺に桑田の地名が密集していることから、この周辺が何かしらの信仰の土地であったことがうかがえます。
 創建時期などははっきりとしていませんが、境内にある県の天然記念物にも指定されたことのある枝垂桜の樹齢を推測してみても、その脇に立つ女いちょうの巨木を見てもながい歴史を疑うことはありません。またそうしたことを裏づけるかのように、拝殿内には市の文化財にも指定されている「香時計」という、仏事などに香を筋状に伏せ、それを焚きその燃える時間で時の長さを見た器具が残されています。
 本尊は坐像と立像の二体の薬師如来像と思われるたいへん素朴な木像です。またその脇を日光月光菩薩が並び、「薬師三尊」という形式となっています。さらにその脇には十二支神将が左右六対ずつ配置され、須弥壇を形作っています。
 こうした様子を見るに付け往時は多くの人々に信仰を集め参拝した薬師堂であったと推測できます。

【担当:中山(和)】
 

2-2.熱田神社について このページのトップへこのページの先頭へ


 皆さんが今居られるのは西鳥居(正門)です。
 他に2つの鳥居(東側と南側)があり全部で3つあります。つまり出入り口が3つあり、三方三ツ辻といわれています。この神社は名古屋市にある熱田神宮の形影をお迎えして村人の守り神として祀られています。
 正面に見えるのが拝殿(覆屋)で、本殿はその奥(東側)にあります。本殿の左右にはそれぞれ「おかみ神社」(本殿北側)と「こだま神社」(本殿南側)が祀られています。
 創建は明らかではありませんが、今から約680年前(南北朝時代)には建立し祀られていたようです。そして、1763年(宝暦13年、江戸中期)に現在の社殿が再建されました。建築は溝口村の高見善八、彫刻は東上州(群馬県)の関口文次郎が手がけ、日光の流れをくむ名匠二人の特殊な建築技法と彫刻技術が見事に調和し、伊那日光ともいわれています。
 1993年(平成5年)には国の重要文化財に指定されました。
 また、左手にある建屋は「舞宮」といい、踊りや芝居などの芸能を神に奉納するための舞台として使われてきました。

 本殿には竜の彫り物が沢山あります。その中に玉(宝珠)を持った竜がいます。この玉に触ってお参りすると健康で幸せになるといわれています。
 それに、「気」が感じられると言い伝えられている場所があります。一度その場所に立ってみてはいかがでしょうか?きっと何かが感じられますよ(個人差もありますが)。

【担当:中島(章)】(坂野代筆)
 

2-3a.宗良親王について このページのトップへこのページの先頭へ


<宗良親王(1311~1385?) [むねよし/むねなが しんのう] >
 700年前の、南北朝対立の時代に、父 後醍醐天皇 母 歌道派の二条為子のもとに生まれる。動乱の世に 父帝の命を受け 南朝の皇子として吉野、遠江、越中、越後、信濃に生涯を転戦・敗戦する傍らで、歌人として多くの秀歌を詠む。残された歌と詞書からは時代の悲劇に遭遇した類い稀な詩心が、王朝の風体を護る歌を通して、寂寥に喘ぐ様が伝わる。現在の伊那市長谷から諏訪へ赴く山中深き峠にて、逆賊に迎え撃たれてその生は終焉を見たようだ。山に深く隠れ死す運命を予見していたか、歌が伝わる。
 「我を世にありやと問はば信濃なるいなと答へよ嶺の松風」(そんなことは最早望まれまいが、万が一にもこの我が身のことを猶生きて世に居るやと問う人あったならば、否々、既にこの世を去られたか、行方もわからぬと、我に代わって、返事してくれよ、此の伊那の山の松風よ。)(川田順)
 それから600年後の昭和15年5月12日長谷溝口の常福寺本堂屋根裏から僧形の宗良親王の坐像とその胎内中に古文書が発見され、その後常福寺に近接する御山に親王の子のユキヨシ親王が墓所を造営し無縫塔を祀ったことが判明した。宗良親王が南朝の再興をかけて山城をめぐり峠を超えてこの地を行き過ぎられた往時の御姿が偲ばれる。なお現在も当溝口地区では春と秋に宗良親王奉賛会を開いている。
 宗良親王の事跡ついて、歴史愛好家や散策派ならば、南北朝時代の南信濃の街道を追想し山城や峠道を辿り学ぶ楽しみ、また文学的・文化的関心からは親王の残された季花集、新葉和歌集を味読する楽しみ が、いまだ秘境の事柄として残されている。

【担当:空架】
 

2-3.大徳王寺城について このページのトップへこのページの先頭へ


 南北朝時代、信濃の南朝方が伊那で挙兵し、徹底抗戦した城と、古文書に記されている。
 この城の存在はその後 歴史の闇に掻き消えてしまったが、その所在について有力な説として挙げられるのが、ここ伊那市長谷溝口の集落と里山の一帯である。研究者の熱心な考究によると、その城は15万坪もあったと推定され 広域の独特な構築がなされていた。以下概略。
 現在の常福寺域の上手には上ノ城(地名もあり)、丸山(六角城)、また県道をはさんで下ノ城(現在の中央構造線断層のある地)があったことは判明している。この三城に加えて、背後には御殿山、峰林の平坦な頂きを控え、また秋葉街道が貫通して大鹿広河原、遠江へ、さらには背後の山城越えに多くの峠道が交錯して諏訪、富士見、甲州へと、南朝がかろうじて支配する地域につながっていた。したがってこの地が南朝の重要な攻撃拠点として また撤退ルートの確保地として集落全体を要塞化していたというのである。
 さて1340年 北条時行が育ての親 諏訪祝頼継と結束してこの大徳王寺城に挙兵し、 北朝方の小笠原貞宗とその援軍 美濃国守護土岐頼遠が包囲する中 4ヶ月もの間 籠城した末に開落した(城に火を放たず)。 その後 この城はしばし不住となったらしく やがて宗良親王が再びこの城にて挙兵したとある。 やがて1394年応永元年 小笠原氏長がのちの名の溝口城を占居し溝口氏を名乗ることなる。
 では大徳王寺城の大徳王寺という寺はいずこかの問題がある。溝口区の五十目という土地(常福寺の上方)に石仏が多く何らかの寺院跡が認められ、古には大伽藍があったことが推測されている。また高遠に残る寺院開基帳にも「溝口・松風峰大徳王寺・開基 明光大徳聖人・弘安元年」と記載あることによって推測するに、まず寺の開祖の名前を冠した寺が始まり、その地の信仰を元に城が命名されたとも考えられる。

【担当:空架】
 

2-3b.大徳王寺城の戦い このページのトップへこのページの先頭へ


 溝口常福寺に隣接する宗良親王陵と伝わる「御山様」の後方高台に、六角形の平地があります。この地は鎌倉幕府滅亡のとき、南北朝の戦いのきっかけとなる事件、中先代の戦いの中心人物である、鎌倉幕府の執権北条高時の子時行が、北朝足利尊氏率いる信濃の守護小笠原氏と4ケ月に渡り対峙したことで知られる大徳王寺城址と伝えられています。この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城でした。遂には兵糧が尽き時行は後方の山中に逃れました。
 大鹿村大平城に居住した宗良親王は、この戦いには参戦していませんが、後の諏訪氏と連携するべくこの秋葉道を用い、大徳王寺にも滞在しました。南朝方にとって重要な寺城でした。
 大徳王寺がどこにあるのかは謎とされていますが、高遠領内寺院開基帳(寛政10年、1798年写)には
  溝口 太平山常福寺  来芝充○大和尚  永禄二年(1459年)今二百十八年  →1241年?
  溝口 松風峰大徳王寺 開基明光大徳聖人 弘安元年(1278年)今回百九十九年に成る→1079年?
と記述があり、大徳王寺は常福寺とは同一ではありませんが、溝口に存在したことがわかります。その後大徳王寺は常福寺に合祀したようです。
 (大正十年発行の上伊那史によれば常福寺は真言宗に属し、呑海和尚 文治三年(1187年)の開創、高遠町香福寺の末であり、開山当時は真言宗であったが、天正六年(1577年)あるいは永禄二年(1459年)わけあって曹洞宗に改める、とあります。)

【担当:中山(勝)】
 

2-4.御山(みやま)について このページのトップへこのページの先頭へ


 南北朝時代、後醍醐天皇の第三皇子(または第五皇子)の宗良親王は、足利尊氏ら北朝軍と対峠し、現在の大鹿村大平城を本拠地としていました。信濃の国諏訪氏は南朝方宗良親王を助け、大平城と諏訪の大神を結ぶ秋葉街道は南朝方にとって重要な道でした。
 「新葉和歌集」や「李花集」撰者で、歌人としても知られる宗良親王はこの入野谷にも滞在し、数首の歌を詠んでいます。

 われをよにありやととわばしなのなるいなとこたえよみねのまつかぜ
 (桑田薬師堂のさくらを詠んだと言われる歌)

 明治中期、溝口常福寺境内横の小山付近の沢で円形の石碑を拾い上げ、寺の基に安置しておきました。昭和6年、宗良親王の調査に来た郷土史家がこの石碑を見、文字を読んだところ正面に十六弁菊花御紋章の下に「尊重法親王」と書かれており、その左側に「元中乙丑十月一日尹良」と刻んであり、まだ終焉の地の判明しなかった宗良親王の御墓であることがわかりました。そして昭和15年、常福寺改修の際天井裏より木像が落下し、これには青銅製の千手観音像と共に胎内文書が隠されていました。これに宗良親王が逆賊により落命し、子尹良親王がその亡骸をこの地に埋葬したことが記されていました。また、昭和6年には常福寺位牌堂から親王に随従して戦死した新田一族六十余名の老若男女の戒名、俗名の書かれた位牌が発見されています。
 当地溝口の住人は古くからこの小山を「御山様」と呼んで尊び、5月と10月の年2回法要を行い、戦いを嘆き悲しみ、歌を愛した平和主義者の宗良親王の霊を慰め、慕っています。

【担当:中山(勝)】
 

2-5.常福寺について このページのトップへこのページの先頭へ


【担当:中山(勝)】
 

2-6.石造物について このページのトップへこのページの先頭へ


 ここは溝口の原才の神という地籍です。
 才の神の「才=さい」は「遮る」とか「塞ぐ」という意味を持つものと推察されます。
 道祖神は、大昔からの民間信仰の代表的なもので、どこの村にもあり、集落の入口などに置かれていました。悪い人や厄病神などの侵入を防ぎ、良縁・子宝・豊作をつかさどり、行路の安全を護り、さらに厄落としの神さまとして崇められてきました。
 それでは、ここの道祖神場にある石造物を順に見て参りましょう。
 右手にあるのは大きな自然石に豪快達筆な文字で道祖神と刻まれています。
 ひとつおいて左側に仲良く並んだ二人の人が浮き彫りされた像があります。右側の少し背の高いのが男神で左が女神です。男神は左手に杯を持ち、女神は右手に大きな徳利をぶら下げています。そしてお互いに手を握りあっているのが分かります。これは「双体握手祝言像」といわれています。単体の像もありますがこの双体像が最も普通の姿で、江戸時代中期以降に造立されたものがほとんどです。
 私たちの祖先がそれにふさわしいと感じたり、いかにも霊験がありそうで語り継がれてきた奇怪な形をした石が道祖神場に置かれていることがよくあります。双体像の左隣に置かれている2つの陽石と背後に並べられている10個近い奇石がそうです。
 陽石と(ここにはありませんが)陰石は子孫繁栄を祈願するといった直接的な信仰を表していて道祖神が性神といわれるゆえんでもあります。
 また丁度中ほどに、馬の顔を彫刻した冠を頂き合掌している観音像があります。これは馬頭観音で、大切な馬の健康や死んだ愛馬の冥福を祈る対象とされ、たいていは死馬を葬ったところとか山道などの交通の難所、追分などに設置され、道標を兼ねたものも沢山あります。一般的には簡単な文字を刻んだ供養塔が多く遺されています。

【担当:坂野(心)】
 

2-7.中央構造線について このページのトップへこのページの先頭へ


 みなさんの居られる、この地は日本列島が形成される時に大陸が移動した痕跡がみられます。
 向かって右側が太平洋プレート、左側がユーラシアプレートの岩石です。
 移動した距離は60kmとも言われ、その長さは1000kmにおよび、九州の八代から千葉県に達していると言われています。
 先日の東日本大震災もこうした大陸の移動によって引き起こされたものです。
 みなさん、向こうの山の少しへこんだ所をご覧下さい最近、気のブームで知られるようになった分杭峠です。
 構造線はこの峠を通りお隣の大鹿村へと続いています。
 構造線の上は気の出る場所が多いと言われ、伊勢神宮、吉野、高野山、なども構造線上にあります。
 また糸魚川、静岡構造線の上には、身延山久遠寺、久能山東照宮など有名な霊場があります。
 昔の人たちも、お寺や、お宮をつくる時には何か感じる場所を見つけ建物を立てたと思われます。
 余談ですが、みなさんご覧になった方もおられるかと思いますが、この近くの熱田神社でも気を感じると言われています。
 境内に座っているだけで視力が回復した人の話も聞いております。
 まだお参りしてない方は是非お立ち寄り下さい。
 尚、お賽銭は多いほうがご利益が有るそうです。
 ありがとうございました。ではゆっくりご覧なって下さい。

【担当:中山(友)】
 

2-8.道標(みちしるべ)について このページのトップへこのページの先頭へ


 ここは溝口の原辻という地籍です。国道152号線沿いなので車に気を付けてください。
 ここには十数個の石造物がまとめて置かれています。

 以前は別なところにあったものが道路の整備などでこの場所に移動されたものが含まれています。向かって右端のいちばん南側にある高さ60センチメートル程の自然石らしきものがそのひとつです。風化が進んで読みにくいのですが「右むら、左あきは道」と刻まれています。「あきは道」とは秋葉街道(古道)のことで、「右むら道」とは原集落への道を指しています。この道標は以前は美和バス停付近の辻にあったそうです。
 木立に印をつけたり木の枝を折ったりまたは石を積んで方向を示したりという原始的な形から始まり、自然石や石柱に刻むようになり、道標として独立していきました。

 その他の石造物についても一緒に見てまいりたいと思います。
 手前真ん中に庚申文字塔(1980年造立)があり、これが一番新しく、向かって左奥に庚申文字塔が2つ並び、大黒天文字塔をはさんで右側にもう1つ庚申文字塔(1800年造立)があり、順に古くなっているようです。庚申塔は60年周期でやってくる庚申(きのえさる)の年毎に建てられていますので、江戸時代末期からの歴史が脈づいていることになります。
 また、奥中央の一番古い庚申塔の右から順に、蚕玉大神(1924年)・秋葉大神/金毘羅大神・墓石(1947年)・駒岳山大神・光明山摩利支天尊、それに手前左端の天神と各々文字が刻まれた文字塔が1つずつあります。
 その他、常夜灯と文字が刻まれた石灯籠と秋葉山のお札入れがあります。

【担当:坂野(心)】
 

旧資料など このページのトップへこのページの先頭へ